僕が生まれる前のできごと(戦後編)(とりあえず、校了)

自分自身のまとめブログ

1.岩井の酒屋が町の外れにある理由
戦後になって、つぎからつぎへと、お酒を扱う商売人があらわれます。
彼らも、バカではありませんから、「先行者がどうやって成功していくのか」 や 「消費者がどのような行動を取るのか」 ということを、良く観察していたのです。
戦前と戦後の一時期に岩井の北半分を抑えたI酒店も、東(馬立、飯島)西(長須)南(七郷、中川)といった、他の地域はまったく手当できていません。
また、お酒や醤油という重量物をリヤカー自転車で商売をするには、体力の限界もあったのでしょう。
チームのカナメの祖父が体を壊してしまいます。後日聞かされたところによると、胃潰瘍で洗面器一杯の血を吐いたと言っていました。
まさに、戦前~戦後まで、山あり、谷ありの人生で、心も体もボロボロの状態だったのだと思います。
 
悪いことは続くもので、商売の要になる金融機関(茨城県のJ銀行)は、相手の能力や状況を一切勘案せず、融資を断ってきたそうです。
 
そのすきに、東半分はF酒店、辺田はN酒店、西半分はS酒店というふうに、町の端の場所に、つぎからつぎへと新しい酒店ができて、周辺のマーケットを抑えられてしまいました。
いっぽう、町の中にあった酒屋でも、このままではジリ貧に陥ってしまうことに気がついた人たちがいました。その人達は兄弟を他の業界へ送り込み、別の商売をする人たちも現れます。その成功例がコーセー化粧品の創業者の小林孝三郎さんになります。(まさに、世間をあっと言わせる大成功だと思います。)

まあ、祖父も、いろいろと思うところがあったのでしょうが、昭和35年ころまでには、家族経営で堅実に商売をしていく方針を決めたと思われます。

一方で、父の兄弟3人のうち、誰に跡を継がせるかということも検討したのだと思います。その中で長男(私の父)が祖父の跡を継ぐことが決定します。
理由は祖父が病気のときに、祖父の代わりに一生懸命働いたから、跡を継がせたということもあるでしょう。ただ、やはり大きいのは2人の弟たちに比べると、どこか足りない部分があり、手元に置いて最後まで面倒を見ないと危なかっしいと感じたのだと思います。(自分の父のことで、あまり悪く言うのも気が引けるのですが、いまでも、見ていて危なっかしいところがあります。)

2.問屋の役割 と 時代の変遷
お酒は重量物です。
自動車が発達する以前、お酒は石下や水海道の駅まで汽車で運ばれてきていました。そして、その地域の問屋の倉庫に保管され、それを、小売業の商人が取りに行くというスタイルだったようです。
 
一度に300kg近くのお酒を、1週間に2回~3回と、10km以上離れた石下駅水海道駅まで取りに行くって、戻ってくると考えただけでもゾッとします。
 
当時の酒問屋の役割は以下の3点にありました。
①駅まで運ばれてきた荷物を保管する機能。
②大量にものを買い付ける資力(資金決済能力)
メーカーから小売店に直接販売すると、配送と販売代金の回収が面倒です。そこで、いちど問屋にモノを販売し、問屋から小売に売ってもらうことで、効率的な販売と代金回収が可能となります。
③小売店への与信能力。
売店は、中小零細企業が多いです。そのため、小売店が消費者にお酒を販売してからでないと、代金の回収ができません。そのため、問屋に小売店への与信機能を担わせていたということです。

しかし、時代が平成になり、酒販売が免許制でなくなります。一方で、トラック等の輸送手段も発達して、重量物の配送もずいぶん楽になりました。
すると、総合スーパー や コンビニエンスストアが一斉に、お酒の販売に参入してきて、小売と問屋の利益をすべて持っていくということが起きます。

そのため、酒問屋という商売は壊滅的な打撃を受けます。一方、酒の小売業も、コンビニエンスストアへの業態転換を迫られることになります。


3.商売のコツ(総合スーパー や コンビニの弱点)

祖父や父は、総合スーパーやコンビニの弱点は、その凝り固まった販売手順にあることを見抜いていました。そこで、次のようなビジネスを考えます。

・グリーティングビジネス
いまから20年くらい前のことです。当時も、歳をとってしまうと自分の足(自動車)で買い物に行けなかったり、お盆や暮れの挨拶にいけない人たちがいました。
そこで、お中元とお歳暮を買ってくれた顧客で、自分の足(自動車)が無い人たちを、I酒店の配達用自動車(ライトバン)の隣に乗せて、挨拶して回ることを考えつきます。
 
最初は大丈夫かよ?という目でハラハラして見ていましたが、意外とうまく行くものです。お中元やお歳暮という商売は、いちど、うまく行くと、繰り返し売上が見込める商売方法です。自分の家のことですが、良いところに目をつけたものだと思いました。
 
・のし紙と書道
総合スーパーやコンビニで対応できない事項に、のし紙の準備があります。相手先の状況に合わせて、お歳暮、お中元、出火見舞い、近火見舞い、快気祝 等々、筆を使って、のし紙を準備していきます。田舎でも書道の苦手な人はいるもので、イベントのある度に一定の売上が上がっていきます。

・大型冷蔵庫の導入
今では、「ビール10ケースを全部冷やして持ってきて」 という需要に対応できる酒屋は多いです。ただ、昭和50年台の前半に、このような需要に対応できていたのはI酒店だけだったと思います。いち早く、10ケースのビールをまとめて冷やせる大型冷蔵庫を入れて、対応しています。
一方、相手によっては、すべてのビールを冷やさずに売ることもありました。結局、お酒は麻薬の一種だということを理解して商売をしていたためです。そのため、1ケースのうち、この人が飲んで良いのは2本まで とか 3本まで とか、管理をした上で、その分だけを冷やして持っていくという商売もしていました。こちらは、旦那さまが飲みすぎないように心配する奥様方に受け入れられたようです。

・小中学校の野球やサッカーの応援
真冬に缶コーヒーの注文が入ると、大きな鍋の中に水と缶コーヒーを入れて、グツグツを沸騰するまで温めてから、発泡スチロールのケースに入れて出荷していました。また缶コーヒー以外に、烏龍茶も混ぜて運んでいました。どういう状況(酷寒の屋外で缶コーヒーが飲まれること と コーヒーを飲めない人もいること」を想定した上で、商売をしていたということです。

・ライフイベントビジネス
これは、現在でも行っているものです。
結婚式は招待客しか来ないけど、お葬式は何人弔問客が来るのかが事前に判りません。そのため、予定数量を葬儀場に運んでおき、使った分だけ代金を支払ってください。余ったら返品して構いませんという商売をいまでも行っています。

・まあ、なんだかんだで、コンビニでできない商売を一家全員で行って、1日の売上が100万円を超える日もありました。そのようなこともあり、現在のI酒店の経営が継続し、孫達が、ふたりとも私立大学(兄は早稲田で、俺は立教)に行くことができたわけです。


4.小学生から中学生のころまで

私が中学卒業するまで、家族の中には大まかな役割のようなものがありました。

 祖父と私:自転車で行ける範囲内の配達 と 空き瓶の片付け
 祖母:店番
 父と母:配達
 兄:勉強

兄は、もともと、頭が良かった。(普通に頭が良いとかいうレベルではなく、いつも茨城県で1番で、全国規模で行われる駿台模試でも1桁の順番のところに名前が出てくる。)ということで、はじめから外に出すつもりで、教育されています。

一方、僕は、家業を継ぐ前提で、祖父の教育(酒屋の引き継ぎ)を受けます。僕は大学に合格しなかったら酒問屋で修行をすることになっていたのです。
祖父は、自転車の後ろに僕を乗せて、客先周りをします。今思えば、いわば、これがデビュー戦のようなもので、祖父が客先でどのような会話をするのかとか、どこにお得意様がいるのか、岩井の地理がどのようになっているのか等々を、僕に引き継いでいきます。

いま考えると、小学生に、家業の手伝いをさせるのはどうかと思いますが、当時は、そのようなことを考える間もなく、ひたすら手伝いをしていました。

酒屋を手伝ったから、なにかを買ってもらえるとかはなくて、とにかく、父と母がお酒を配達し、戻ってくる車には空き瓶が満載されています。一方、父と母は次の配達先へ、モノを運ぶ準備をしているので、必然的に、祖父と僕が空き瓶の片付けをしないと仕事が回らない状況ということで、必死になって、働いていたという記憶しかありません。


5.重要なポイントは常に考え続けること

岩井という限られた地域での経験で、全国で同じような事例があるのかどうかは解りません。ただ、昨今の企業を見ると、前年より売上が上がった、下がったという表面の数値にこだわるあまり、大切なものを見失ってしまうようです。
いちばん大切なのは、「世の中の流れが良く見えているか?」「消費者の行動を良く観察できているのか?」 ということになります。

私の父も、昔からお客がいるということに安住してしまって、なぜI酒店で買い物をしてくれるのか?なぜ他の酒店で買い物をしないのか? ということをきちっと観察できていないように思います。

また、最近でも、売上不振に陥った企業が、いたずらにイベントを行ったりする事例を見ます。はっきり言ってイベントを打つようになったらその商売はおしまいだというのが私の持論です。その瞬間だけは良くなるかもしれませんが、次の反動減は大きなものになります。
やはり、生き残るには顧客のニーズを考え続けること と 繰り返し来てくれる顧客からどうやって利益を確保するかが、商売の基本ということになります。