自分ができた経緯説明_校了

自分ができた経緯説明(健康状態等、いろいろ)

1.小学生以前
私はかなり難産で生まれたようです。
本来であれば、私の兄と私の間には、もうひとり兄弟がいるはずだったのですが、家族で商売を回さざるを得ない状況で、母もかなりの無理をしたのでしょう。2番目の兄は流産をしてしまったとのことです。
その後、3番目の私が生まれるときは、多少は慎重になったのかもしれませんが、とにかく、1970年にかろうじて、この世に生まれました。

生まれたは良いものの、私はいろいろな問題を抱えた状況で生まれてきます。その一つが体の骨の湾曲です。
祖父に連れられて商売に回るのと同時に、接骨院に通って足の湾曲を治療することになります。いま考えると、接骨院ではなく整形外科に行くべきで、骨が成長する前に、正しい形になるようにギブスをはめておけば、きちっと走れるようになっていたはずです。
ただ、当時はそのような知識もなく、早く走れない(50m走で12秒前後かかる)という問題に突き当たります。

2.小学生になってから
うまく走れないということは、小学生にとって、大きなハンデです。他の小学生が平均台の上を、スルスルと器用に歩いていくのに、私にはそれができないのです。そのため、体育の成績は5段階評価の1でした。私の足の事情を先生に話せば、相応にゲタを履かせてくれたのかもしれませんが、当時はそのような知恵もなく、子供ながらにショックを受けたものです。

一方、足のハンデは、ドンくさい奴というふうにとらえられることも多く、周りにも影響を与えていきます。

小学校4年生のときの担任のM先生は、今で言う、暴力教師でした。
とにかく、自分の気に入らない奴のことは、手加減なしに徹底的に殴ります。一方、自分にすり寄ってくる生徒は、自宅に招待するというような、あきらかな、えこひいきを行います。
私は、ドンくさいやつと見られていたのでしょう。先生の気に入らない奴というカテゴリに分類されてしまいます。
当時は、毎週水曜日の6時間目はクラブ活動で、クラブ活動が終わり次第、各々で帰宅というルールになっていました。たまたま、水曜日に体調が悪くて、クラブ活動を途中で切り上げて、自宅に帰ってしまい、翌日、先生に報告しにいったときのことです。

前々から、私のことを嫌っていたのでしょうが、理由も聞かず、いきなり角材で力任せに、頭を殴られて、流血してしまいます。このときは、他の生徒も暴力被害を受けており、さすがに親が教育委員会に相談するという話になったのです。しかし、その前に、殴った先生がマズイと思ったのでしょう。先手を打って誤りに来てしまい、沙汰止みになってしまいます。

ただ、このときに受けた「力まかせの暴力にはかなわない。」という思いは、現在まで、自分の心の奥底で尾を引いていくことになります。一方で、「暴力には、うやむやにせずきちっと知恵で対応すべき。で、そうしないと、自分と同じ犠牲者が何人も出てしまう。」という考えも一方で持っていました。

自分の感情は、このときに一度壊れています。
いま考えると、「人間はたとえ先生といえでも、感情に支配されてしまう動物で、世の中は理屈で通用しないこともあるんだ」 という、整理の仕方もあるのでしょう。ただ、今回、文章を書くまで、ずっとモヤモヤしたままで残っていました。

きっと、このできごとが、自分の中にある卑屈さの原点のようなものです。

4.中学生のころ
中学生になっても、あいかわらず、どうやっても走るのが早くなりません。一方、中学生になると、だんだんごまかしの効かない 球技、陸上、体操といった科目が増えてきます。
まあ、親や私の同級生も このままではまずいと思ったのでしょう。いろいろな人のススメもあり1年間だけ、柔道教室に通うことになります。
子供のときにお世話になった接骨院の先生がやっている教室で、ここで、先日お会いしたO先生の旦那さまにも、面倒を見てもらっうことになります。
当然、接骨院の先生も私の小さいころを知っていますから、強くならないだろうということも承知の上で指導をしてくださったのだと思います。ただ、弱き者にもできる限りの愛情を注ぐという姿勢には、いまでも、とても感謝をしています。

勉強の方は、中学生のころに、ようやく、世の中の事情が飲み込めてきました。
兄には及ばないものの、岩井中学の同窓生409人の中で、なんとか、10番以内の成績を確保できるようになり、先が見えるようになります。

一方で、勉強だけができて、運動ができないというのはイジメの対象にもなります。
むりやりパンツを降ろされたり、絶対に飛べないハードル競争に出場させられる等々、ひどいこともされましたが、まあ、こちらは、中学生同士の悪ふざけのようなもので、結構、あっけらかんとしたものでした。
スポーツの中で、水泳だけは、足の骨の影響が無いので、普通に3kmくらい泳ぐことができますし、45歳まで、日本橋小学校でトレーニングをしていました。すべてのスポーツがダメでなくてよかったです。

5.高校生のころ
・水海道一高の同級生は330人います。岩井中で一桁台だったといっても、集まってくる奴らも、みんな、それぞれの地域の神童とされていた奴らなので、なかなか成績が上がりません。高校1年生のときは、300番代友の会(30人限定)という、あまり、ありがたくないグループに入れられて、補修授業の常連になってしまいます。
無理やり、勉強しても、勉強しても一向に成績が上がらず、かなり、参ってしまいます。結局、高校3年生の11月くらいまで成績は上がりませんでした。

・一方、そのようななかでも、クラスの友人達と楽しく高校生活を送ります。前の席に座っていた木村君は、私にホロヴィッツというピアニストが演奏しているベートーヴェンピアノソナタのCDを貸してくれます。一方、後ろの席に座っていたK君とは、現在でも親友として付き合いがあり、一緒に理科部無線班に入り、パソコンソフトの開発をすることになります。

・高校生のときには、麻雀も覚えます。麻雀は高度な知的ゲームで、平成一桁まで、銀行の中でも大流行していました。さすがに高校の中で麻雀卓を囲んでいたときは、先生に本気で怒られました。これが、最後にビンタされた経験で、これ以降、いままでビンタをされたことはありません。

・高校まで自転車で通う。脚力のなさを実感。
高校までは、毎日片道13kmを自転車で通っていました。いま考えると、足の骨の悪さも、筋肉をきちっとつければある程度まではカバーできるということがわかりました。走るのと違って、足の骨に衝撃を受けないので、自転車はとても素晴らしいトレーニング道具だということが分かりました。

・受験の準備と大学受験
高校3年生の10月頃から受験勉強を始めます。道具は、兄が使用したものが一通り揃っているので、その跡をそのままなぞっていくだけです。僕は魔法の参考書と読んでいたのですが、参考書の解説を更に分かりやすく解説して、間違いやすいポイントまで、ほとんどすべての回答が、参考書に記載されています。

これだけで、他の受験生と比べて、圧倒的なアドバンテージになりました。結局、300番代だった成績は2ヶ月くらい勉強しただけで、学年で2番まで上がり、立教大学に合格することになります。 ← はっきりいって、一種のチート行為と言えるかもしれません。兄は現在岩井で学習塾を経営しており、塾の授業で説明した箇所がそのまま試験に出るということで評判になっているとのことです。

6.社会人になってから気がついた体の問題
一方、社会人になって、初めて本格的な健康診断を受けることになります。そのとき、背骨にも骨の湾曲があることが判明します。こちらは、大人になるまでまったく気が付きませんでした。なんとなく、肩が凝ったり、首が痛かったりといったことはあったのですが...
小さい頃からギブスをつけておけば、こちらも、もっといろいろ対応ができたのだと思います。

7.結論
とにかく、病気でも、正しく知って早めに対応すれば、ほとんどの病気は治る時代になったということです。
人も、同じで、適切に処置をすれば、それなりに変化させることはできると思います。
自分がいま気がついている問題は以下のようなものです。