事務部時代(2009年~) 校了

事務部時代(2009年~)

1.捨てる神あれば、拾う神あり
システム部では、完全にH部長のメンツをつぶしてしまい、干されてしまいます。
会社に行っても、まったく仕事はありません。唯一残っていたのは、中途採用された担当者にはできない、基幹システムと会計経理システムのインターフェースを作る仕事です。
それ以外に新しく発生する、前向きの案件は、ほとんどが中途採用された新しい担当者に割り当てられていきます。
 
一方で、会社の中には、せっかく育てた人材なんだから、私をなんとかしたいなとの考えを持ってもらえる方もおり、折に触れて声をかけてもらっていました。
そのような中で、たまたま、事務部のメンバーの2人が、大きな病気になってしまいポストに空きが出ます。
こうして、2009年10月にシステム部から事務部に異動になります。
 
なんといっても、システム部時代にいちばんショックだったのは、それまで額面で70万円ほどもらっていたボーナスが、H部長の評価ひとつで、いきなり30万円代まで減ってしまったことです。
日本橋リースの人事評価制度の欠点というのは、結局、人事部そのものに充分な人の手当ができておらず、社員の評価をきちっとできていないことです。
そのため、各部門の部長の好みだけで、その人の評価が決まってしまい、その人が会社の中でどのような役割を果たしているのかという評価もできていません。
一方で、人事部のデータベースもアップデートができていないため、退職をするときまでマイナス情報が人事部のデータベースに残り続けてしまうという問題もあります。
 
結局、当社も含めてですが、上司に気に入られるかどうかだけですべてが決まってしまう日本の人事システムに根本的な問題があります。
そのシステムから逃げ出した人達が、韓国や中国に渡って、日本の技術を現地の人達に教育して、人を育てて、日本に仕返ししているという、ほんとおかしな状況になっています。
すべての韓国、中国、台湾の企業がうまく対応できているとは思いませんが、「鴻海精密工業の技術者は、もともと日本企業にいた優秀な技術者だった。」 という例をみても、日本の各企業を正しく機能させるには、まずは、人事部の担当者が社内をウロウロしながらオタク話をするような、ゆるい雰囲気を作ることから始めたほうが良いかもしれません。
 
一方で、日本橋リースは、まだマシな方なのかもしれません。システム部時代には、他の会社での悲惨な事例を目にしました。
システム部時代に当社に出入りしていた他社のSEさん(本当に優秀な方だった)は、その派遣元の部長の指示で、
 ・ボーナスをもらえない
 ・同僚もひとことも口を聞いてくれない。(すくなくとも部長のいることろでは)
 ・会社を退職するときに送別会も開いてもらえい
といった仕打ちを受けていました。
いったい、その会社の統制はどうなっているんだろう?
そもそも部長がそんなにひどい評価をするのであれば、評価そのものが正しいかどうかを疑う人はいなかったのか?
それほどひどい評価の人を重要取引先とされていた当社に常駐させておいて、大丈夫か?そのことを疑問に思う人が、その会社にひとりもいなかったのか?あるいは、すべてを解ってやっていたのか?

等々、いまでも疑問で一杯です。
それに比べると、ボーナスが半分に減ったくらいで済んだだけ、ましなのかもしれません。

2009年から約10年が経ち、あらためて考えてみると、上にへつらって無難に職務をこなすというのか賢い選択だったのかもしれません。
ただ、それをやってしまうと、人間としての自分にウソをついていることになります。
やっぱり、目の前にシステムで困っている人がいれば、それを助けるのが人としてのあるべき道だと思うし、俺はサラリーマンである前に職業人(プロフェッショナル)でありたいと思っているので、「なにもしない。」という選択肢はありませんでした。きっと、部長に逆らっても、顧客を助けたことは正解だったと思います。

まあ、いずれにしても、システム部をクビになって、あらためて、事務部での仕事に取り組むことになります。

2.保険の担当として(2009年~)
事務部に来て、まず、真っ先に担当したのは保険の仕事です。
前任者2人が病に倒れて、一方、得意としていたシステム開発も封じられてしまいます。システムエンジニアから(自由に使えるデータベースとプログラミング言語)を取り上げてしまえば、ただの無能な人になってしまいます。
まだ、パソコンを取り上げられなかっただけ、ましかもしれません。システム部時代にはH部長からは、度々「パソコンを取り上げるぞ。」と脅されていましたし、実際に本当にひどい会社ではすべてを取り上げて、ひたすらコピー作業をさせるというところもありました。
 
一方、事務部では前任者が急にいなくなったことで、目の前には、引き継ぎなしの仕事が山積みしています。いったい、どうすれば良いのだろうというのが正直なところでした。
ただ、一方で、社会人としての経験は、40歳を目の前にして、十分な実力がついていました。役職は、マネージャーのままですが、とにかく、部長代理になったつもりで、目の前の仕事を必死にこなしていきます。

3.保険という金融商品
保険という金融商品は、なにかうまくいかないことが起きたときに、お金で解決してくれとお願いして、無理やり納得してもらう かなり乱暴な金融商品です。うまくいかなかったこと自体は取り返しがつきません。
また、保険の種類には生命保険と損害保険があります。生命保険は、だいたい、契約を申し込んだ当事者が死んでしまっていることが多いので、淡々と、保険金を支払って、契約終了になることが多いです。
一方、損害保険は、契約先(当社)や、借主(リース物件の使用者)ともピンピンしており、ゴリゴリとしたハードネゴシエーションが続きます。瑕疵担保責任だとか、時効の考え方だとか、民法と保険契約の解釈を巡ってゴリゴリと交渉しながら、システムとまったく違った分野で能力が鍛えられていきます。一方、客先と保険会社との板挟みにあって、保険金を下ろして欲しいのに支払ってもらえなくて謝りに行くこともあり、精神的には、かなりきつい仕事でもありました。保険の仕事をしてみて、よくわかったのは、損害保険会社の年収が高いことを理由です。あの精神的にハードな仕事についていけずに、途中で脱落してしまう人がかなり多数いるのではないでしょうか? 給料の高さにつられて安易に損害保険会社を就職先を選ぶ学生がおりますが、私がもし学生時代に戻っても絶対に就職したくない業界のひとつです。
いまは、保険の交渉事は、事務部ではなく、営業部店の担当業務に変更されています。
 
4.東日本大震災(2011年(一次情報にふれる重要性))
保険の担当として、2年を経過するころです。東日本大震災が発生します。
東日本大震災には本当に驚きました。以前に祖父から関東大震災で半日近く揺れが続いたという話を聞いていたものの、実際に自分が大地震を体験するのは初めてです。
以前のオフィスは、安普請のビルだったので、とにかく揺れ揺れに揺れます。 事務部は6Fにあったのですが、重量500kgくらいの金庫が1mくらい移動してしまいした。挟まれていたら確実に死亡しています。一方、10Fの社長室も、壁にかけてあった絵画が落下したり、調度品が壊れたり等々、大変な被害でした。6階にあった事務部も、天井のパネルが外れて、白い粉がパラパラと落ちてくるといったありさまでした。震災の当日は会社に泊まり、翌日、自宅に帰宅することになります。
自宅に帰ってみて良かったのは、地震が来ても、まず倒壊する心配の無いマンションを買っていたことです。揺れがきても、船に乗っているような揺れはあるものの、建物が壊れる心配はまったくありません。きちっと眠って、翌日仕事に出かけられるという、恵まれた状況でした。

震災のときに、先輩から教えららたのは、一次情報にふれる重要性です。地震が起きたとき、先輩はネットを開いて真っ先に星条旗新聞(STAR AND STRIPE)のホームページを見ています。さすがアメリカだと思ったのは、震災の約10分後には、三沢から偵察機を飛ばして、津波のライブ中継をやっていたことです。おそらく、当時、日本の首相だった菅直人氏より、アメリカのオバマ大統領のほうが先に情報を得ていたのでしょう。
アメリカの底恐ろしさみたいなものを垣間見た気がしました。
一方、私も、なにか大きな事件が起きたときは、星条旗新聞(STAR AND STRIPE)を真っ先にチェックするという習慣もできました。

4.自動車リースの担当として
2014年のことです。ふいに、上司から呼び出しがかかります。「君、新しい仕事をやってみる気はないか?」ということです。いったい何が始まるのだろうと、不安とワクワク感がありました。事務部で5年経過したし、このあたりで、異動があってもおかしくないかなという気もしています。
 
その後の結果は、またしても、驚くべきものでした。
 
約10年近くに渡って、自動車の業務を仕切ってきたHさんが退職するということです。
システム部のときも同じでしたが、退職者の穴を埋める仕事は、必ず俺のところに回ってきます。それだけ、管理部門の仕事であれば、無難になんでもこなせるということなのでしょう。
まあ、プロ野球の世界でいえば 「5対3くらいで2点ビハインドしていて、本格的なリリーフはつぎ込みたくないけど、ゲームは壊さないでね。」というところで投入される、中継ぎ投手のようなものです。
大体、シーズン終了後に、3勝5敗 10ホールドポイント くらいの成績で、年俸2500万円くらいで契約更改される、頼りにならない中継ぎ投手といったところでしょう。
まあ、保険の仕事にひきつづいて、またしても、他の人の後始末かよ? とも思いつつ、また、仕事のあることに感謝もしつつ、仕事の引き継ぎをしていきます。

Hさんの仕事のスタイルにはかなりの問題があって、極力情報を外に出さない方針だったようです。契約書類は自分の秘密のキャビネに隠してあって、その人以外は、誰もどこにあるのか分からない。
営業マンが頭を下げてくれば、契約書のコピーを取らせてあげるけど、それ以外は一切秘密。
というような状態でした。
 
そのような状態のなかで、まず、心がけたのは情報をオープンにするという姿勢です。

・2014年以前は、自動車のリースは契約書をパソコンで電子的に見る事ができませんでした。まずは、パソコンの上で契約書類のイメージを見れるようにしようという作業に取り掛かります。移転先のオフィスに契約書類の保管スペースがなかったこともあり、自動車契約のほとんどすべてを、倉庫会社に送り込み、電子化(スキャン)の作業を依頼します。これで、少なくとも事務部に頭を下げないと契約書を見せてあげないよというような意地悪をしたり、されたりすることはなくなりました。
 
また、以前は日本橋リースは自動車を何台保有しているのかといった情報さえ、正確につかめていなかったものを、国のデータをEXCEL一覧に加工した上で、全社で共有して閲覧できる仕組みもつくりました。
やはり、仕事で心がけているのは、上を見て仕事をするのではなく、みんなに使いやすいと言ってもらえるような、データや事務の仕組みを作るということです。
この点は、システム部時代から一貫して心がけています。

5.日本橋リースをやめない理由(1995年~)
・まあ、会社にはいろいろな人がいるものです。
大学時代、ほぼ無気力人間だった私に、500万円近くの教育費 と 多大な時間をかけて育ててくれた恩があります。私の考えでは、社会全体はギブ&テイクの関係でできているので、最初にテイクしてしまった分ぐらいは、次の人達にギブしていかないとという思いが大きいです。結局、それが自然に拡大していくようになれば、会社はそれに合わせて成長していくということではないでしょうか?

・一方で、最近は会社の中にものごとの本質を理解しようとしない人たちが増えてきているのも気になります。マニュアルにダメと記載されているからダメなんですという論法で人の話を一定の深さをもって聞くことができない人達です。

たしかに、銀行は役所と同じ社会機能を果たす役割があるので、一定のルールで動く必要があります。一方、リース会社では、銀行にできない業務を行っているため、どうしても同じ基準を適用できない場合があることも事実です。また、顧客に合わせて仕事をすることによって、銀行ではないリース会社独自の役割も果たしているということです。

・変な人の居場所のある世界
私自身、サラリーマンになったときは、人とまったく会話もできない、変な奴(というより、気持ち悪い奴)だったと思います。いまでも、自分自身を自宅の洗面所のカガミで見て、ため息しか出てきません。もちろん、自分で自分自身を気持ち悪いと思うことがあるということは、他の人から見たらもっと気持ち悪いんだろうなと思います。
きっと、太宰治人間失格に書かれた「私はその男の写真を三葉みたことがある。」という世界もこんな感じなのかなということです。
 
ただ、そんな奴でも、日本橋リースの社内で飼われていて、いざというときは、ある程度役に立つことがあるということで、かろうじて生きているということです。


6.日本橋リースの弱点(2005年頃~現在まで)
・中期経営計画のバカさ加減
まあ、日本の多くの企業も同じです。当社でも親銀行のやり方に合わせて中期経営計画という3カ年計画を立てます。これは、銀行でも当社でも、学生時代にソ連バンザイ(マルクスーバカ)だった人たちが、社会から完全に引退するまで同じことが続くでしょう。
だいたい、これだけ変化の激しい時代に、いったいどれだけの人たちが、3年後に中期経営計画どおりに「ものごと」が進んでいると思っているのでしょうか?
きっと中期経営計画の作成を指示した経営者も、実際に作成している現場の担当者も、「まあこうなったら良いよね。」くらいの感覚で作っているのではないかと思います。
中期経営計画に具体的な数値項目を入れられないのは、それを入れてしまうと計画を作った経営者と企画担当の社員の責任になってしまうことが大きいと思います。
いっそのこと、いまから3年先なんて誰も予想できないんだから、もっと簡便な計画(項目ごとに、①考えて、②実行してみて、③評価する)というシンプルなサイクルを、半年ごとに計画する仕組みにしたほうが、より生産的なような気がします。
まあそれでも将棋の端歩をついておくように、勝負が入り組んでいないときに、自分が有利になるような仕組みを作っておくことは重要です。

 
・過剰なリスクマネジメント
リース会社ではお金を扱っている以上、リスクマネジメントはやむを得ないのかもしれません。ただ、あまりにも過剰なリスク管理も考えものです。なぜか、ビットコインのように電子的にお金が流出することは無いのに、社内のシェアポイントデータベースに保存してあるウィルスチェック済のファイルも、マウスの左ボタンで開くことができません。いったん、パソコンに保存させてから開くというような作業負担を全社員にお願いするのであれば、ウィルスに感染することを覚悟した上で、セキュリティをゆるくするという考えもあって良いと思います。

・ハンコ多すぎ
日本の会社の悪いクセなのですが、とにかく書類にたくさんハンコがついていれば、その書類は出来が良い書類ということになります。まあ、尖った意見が書かれていない無難な書類ということでもあるのですが、結局、だれが責任者なのかが、書類上からはいまひとつ分からない状態になってしまうのです。
あと、書類のハンコは担当者の判断を誤らせます。xx常務が押しているんだから、絶対に問題のない与信先だ とか 異例扱いの書類だ とか 言われたとおりに処理しないと報復を受けるかもしれないといった先入観が、審査部門や事務部門の判断を鈍らせます。私は水戸黄門症候群と読んでいます。昔、東野英治郎水戸黄門をやっていたときは、印籠を見せても、歯向かってくる骨のある奴がいたのですが、西村晃里見浩太朗と続くにつれて、歯向かう奴は皆無になります。
日本の社会が予定調和で動くことを好む社会に変質してしまったということなのです。
 
ただ、一方で、現実社会は予定調和どおりに進むことはなく、その役員や担当者が会社をやめたあとに、採算に合わない契約だったり、事故が発覚したりとか、問題が発生します。
逆に、偉い人のハンコの押してあるものほど、深さや観点の点から見逃しているポイントがないかどうかを丁寧にチェックして、対処してあげたほうが良いのかもしれません。

・営業事務マニュアルの変更は役員の仕事か?
日本橋リースの営業事務マニュアルは役員の承認を得ないと変更できないことになっています。本来、リースの現場では、結構ギリギリの判断をすることも多く、現場に一番近い人達が、その場で判断することも多いのです。またリースの現場に不慣れな役員が間違えた判断をしてしまうこともあります。結局、現場に一番近い社員が、実態にあった私的なマニュアルを作成し、全社員が見る全社掲示板にほとんど約に立たない無難な営業事務マニュアルが載ることになります。営業事務マニュアルは、誰も見ないまま10年以上放置されたままになったりすることになります。
 
会社を危機に陥れてしまうような与信判断基準のようなもの以外は、権限を現場に下ろしてしまっても良いのではないかと思います。


・人事評価は、あなた自身の評価ではない。
サラリーマンを25年以上やっていると、人事評価でも壁にぶち当たることが多くあります。ボーナスが半減させられたり、同期が全員課長になったのに、自分だけが係長のままというふうになると、全人格を否定されたような気分になってしまう方もいるかと思います。
ただ、会社の評価とは、仕事の能力(その能力でさえなくて、上司に気に入られる力)だったり、失敗しそうなことを何もしないでいた不作為の力であったりして、なにかをやったからマイナス評価をされてしまう人達も多いのです。
まあ、自分が責任を取れるんだったら、あまり、他人の評価なんか気にせずに、好き勝手にやってみても良いと思いますし、絶対にそっちのほうが人生後悔せずに済みます。

パワハラの回避力、上司に嫌われる力
結局、パワハラの回避力 と 避難場所を作っておくことが重要です。
サラリーマン人生は22歳で就職してから65歳まで43年間に渡って、戦わなければいけない長期戦です。その中では、オトコを通して上司とケンカする場合も必ずあります。上司と戦った結果、コピー係になってしまうのは、あまりにももったいなさすぎます。
 
万が一、パワハラにあったとしても、会社の中に避難場所を確保してあれば、そこで、嵐が過ぎるのを待つことができます。まあ、下手にひとりで社外にでて、嵐に立ち向かうより、やり過ごしたほうが良いと判断するのも手ではあります。

・会社を辞める前に考えて欲しいこと。
いちど逃げる人生を選ぶと、一生逃げ続けることになります。いまの仕事が嫌だからやめるといって、何回も転職をする人を見ていると、絶えず、夢を追い続ける人生を送ることになります。それはそれで、うらやましくもあるのですが、人間はまずご飯を食べていくこと と 家族を守ることを優先すべきだと思うのです。
有り余るほど、現金、預金、マンションを持っているのだったら、夢追い人も良いのでしょうが、現実を見据えた対応が必要です。

茨城県南部の歴史考察。校了

茨城県南部の歴史考察。()

1.岩井という場所
(1)徳川家康の江戸入城
私達はどこから来たのか?という疑問は、いつも、私の中にありました。今回、いろいろと調べてまとめてみました。

岩井の歴史は、徳川家康の関東地方の支配とともに始まります。
江戸城に入城して、家康がはじめに行ったことは、江戸の町の防備を固めることです。
江戸時代初期は動乱の時代(戦国時代) から 安定した時代(江戸時代中期)への移行時期で、江戸より北の地方には戦う気が満々の武将、およびその子孫たちが、虎視眈々とすきをうかがっていました。戦国時代に徳川氏のライバルだった仙台の伊達氏、常陸国の佐竹氏、越後の上杉氏などはその筆頭格です。
彼らは、徳川の世の中になったからといって、自分の家は徳川家と同格だという意識が常にあり、徳川家の軍門にくだるのを良しとしなかったのです。徳川家が西国の戦争で江戸を離れるすきがあれば、江戸を攻め落としたあと、その勢いで西国に攻め入って、豊臣の残党やキリシタン大名と結束して、徳川を打ち破り、自分が天下人になるつもりでした。

 そのような状況の中、江戸の防備を固めるために、徳川がまっさきに行ったことは、現在の江戸川(五霞町)と鬼怒川(守谷市)の間に川を掘るという工事です。
常陸の国というのは、「常に陸」という字のとおり、大きな河川がありません。いちど、いわき(福島県いわき市)まで攻め入られてしまうと、あとは、陸路で一直線に江戸まで攻め入られてしまうような状況だったのです。そのため、現在の江戸川上流から 鬼怒川中流まで川をつなぐという大工事を行い、攻められないように防御用の川(堀)を掘ったということです。そして江戸の北方から敵が攻めてきた場合、関宿(現在の野田市 と 岩井市)に配置した各家が協力して敵を撃滅するということだったのです。

それゆえ、関宿(現在の野田市 と 岩井市)には、徳川家がもっとも信頼する譜代大名や農民が入植させられました。関宿の農民が江戸時代から名字を持っていた理由は、江戸時代が完全な士農工商の時代ではなく、この地域では、士農工商の身分の違いを乗り越える自由があった人たちがいたということです。


(2)関宿藩 岩井
岩井は関宿藩(現在の野田市にお城が築かれ)の管轄に置かれます。江戸時代は、利根川が国の境ではなくて、岩井と野田はひとつの地域をなしていたということです。関宿は重要な防衛地だったため、代々徳川譜代の大名が配置されていましたが、その中でもっとも優秀だったのは、久世氏と言われています。

そして、岩井の人たちは、頭を悩ませながら南側に流れている利根川と付き合っていくことになります。

利根川の掘削は江戸初期1680年頃までにひととおりの工事が終わっていますが、久世氏は、江戸を洪水から守るために、さらなる対策を講じます。それは「関宿落とし」 という関を作る工事です。これは江戸川の堤防を数百メートルに渡って高くかさ上げした上、川幅を大幅に縮め、洪水が発生しそうな大雨が来ても、江戸川の水量を一定にし、溢れ出た水を強制的に現在の利根川(岩井、守谷、取手、銚子)方面に流して、江戸の町を洪水から守るという工事です。関宿落としの工事が終わると同時に、江戸は江戸川(旧利根川)の氾濫の影響を受けにくくなります。一方、岩井や野田といった新たに掘られた利根川の流域は、毎年のように洪水(水害)に見舞われることになります。

(3)久世氏の業績(度重なる自然災害に立ち向かう。)
久世氏は、度重なる自然災害(水害)の中で、藩の運営を深く考え、以下のような手当をします。
①藩の飛び地設ける。
藩の飛び地は大きく分けると、下野の国(現在の栃木県)、常陸の国(現在の茨城県中部)、和泉の国(現在の大阪府堺市)に設けられました。
飛び地が大きく2つに分かれているのには理由があります。
下野(栃木県)の飛び地からは、洪水発生時の当座の食料の調達です。水害が起こるかどうかは、川の上流(栃木県)からは容易に推測が可能です。そのため、一定の水量の大雨が降ったときは、即座に食料を下流の関宿まで運べるように準備していたということです。おそらく、船も相当数が準備されており、災害時には一斉に利根川を伝って、関宿藩まで食料が運ばれたことでしょう。
一方、大阪の堺市の飛び地は全く目的が異なります。
通常は、米を調達するには堂島に一番近い場所に蔵屋敷を設置したほうが良い考えるのが普通です。ただ、よくよく考えてみると、堺市でなければいけない理由が分かります。堺市は、大阪南港の近くにあって、コメの流通を一番最初につかむことができる場所です。また、堺市に水田をもつことで、降り出した米切手をすぐに現物に替えることができ、振り出した米切手を現物で商人から買い戻すことができます。また、関宿で米が足りない場合、堂島に運ぶ前に、大阪南港に米がついた段階で買い付けて、関宿まで回送できます。
まさに、災害が多い関宿藩の知恵をすべて出した藩の運営がなされていたということになります。

(4)重農主義から重商主義
一方、米がうまく育たないということは、関宿での新しい産業の成立を促しました。川の南側(現在の野田市)では醤油製造。川の北側(岩井)ではお茶の栽培です。
醤油の原料は、大豆、塩、硬水です。大豆は、現在の茨城県やその北方で栽培されたものが、鬼怒川から利根川を経由して関宿(野田)まで運ばれてきます。塩は霞ヶ浦から運ばれてきました。霞ヶ浦は現在でこそ淡水湖ですが、近代になるまでは塩湖でした。そして、谷川岳から流れてくるミネラル分の多い硬水ということになります。野田はこの3つの合流地点です。野田の醤油が有名になった理由は、生産地として、3つの地点から等距離にあったことと、大消費地の江戸まで船で運べることが大きかったと思われます。なお、岩井も、七郷には近代になるまで小さな醤油の醸造元がありました。
そして、野田の醤油は、江戸の食文化にも深い影響を与えていきます。醤油の発明前は、マグロは痛みやすく庶民からは食べられない魚の代表のように扱われていましたが、切り身にしたあと醤油につけるマグロ漬けという保存方法が発明されました。江戸前から相模湾で取れたマグロ と 野田の醤油は、切り離せない関係になり、江戸の庶民の胃袋をがっちり掴んでしまったということです。

(5)飢饉の悲惨さ
歴史の教科書では、江戸時代は飢饉が頻発した時代とされています。その理由は度重なる天変地異のためとされているのですが、私はそれに疑問を持っています。
理由は、歴史の教科書を書いている人たちが米の金融商品としての性質を正しく見ていないためです。
江戸時代、堂島に米市場ができたときは、米は現物取引が中心でしたが、次第に商人たちは米を蔵から出さず、紙だけで取引するようになります。
人間とは、昔も今も重いものを運ぶことが嫌いなので、どうせ最後に決済するんだったら、現物は蔵の中にしまっておいて、紙の上だけで決済を行えば良いんじゃないの?ということになりました。
そして、一度紙になった米切手は、次第に有価証券の性質を持ち始めます。諸藩によっては、財政が苦しいときに、来年取れる米を当てにして、現物の裏付けのない先日付の米切手を振り出すところも出てきます。

東北地方で飢饉に見舞われた諸藩は大体そのようにして先日付の米切手を発行していたと思われます。つまり今年の収穫予想高が10万石であれば、五公五民として、半分の5万石の米切手を振り出し、金を融通する。
実際に、10万石以上取れる年もあれば、5万石しか取れない年もあるのに、10万石の米が取れる前提で、米切手を発行してしまいます。たまたま、飢饉のときは5万石しか取れない年が3年間つづいたとすると、すでに振り出した米切手を決済するために、すべてのお米を領民から取り上げなければ、米切手が不渡りになってしまう。こうなってしまうと、裏作の麦が取れない年は、即、飢饉ということになります。
一方、法制度の未整備だった江戸時代では、不渡りを発生させることは、現在より恐ろしいことだったでしょう。法制度の整った現代では2回めの不渡りで5年間の銀行取引停止処分というルールがあり、また、万が一の場合は破産という方法も残されています。一方、江戸時代は法治国家ではありません。ひょっとすると、米切手不渡りという不祥事が起きれば、お家お取り潰し、関係者切腹、藩のメンバーが全員失業していしまう。という最悪の事態を招きかねません。

こうなってしまうと、領民が何人死んでも、米切手の決済を優先させて、領民の食べるものをすべて取り上げて、堂島まで運ぶしかないということになります。このようにして、飢饉というのは天変地異だけでなく、その時代の市場の仕組みによっても影響されてしまったのだと思われます。明治になって、税金の仕組みが米の納付から地租に代わり、堂島米市場は廃止され、一方、米を鉄道で輸送できるようになり、米市場自体が意味をなさないものなっていきました。

現代でも、適切に市場をコントロールすることは、難しいことです。ただ、そこに資金を供給する金融業は、医者と同じく人の命を預かっているという大変な職業だという認識をもって、仕事をすることが肝心です。

自分ができた経緯説明_校了

自分ができた経緯説明(健康状態等、いろいろ)

1.小学生以前
私はかなり難産で生まれたようです。
本来であれば、私の兄と私の間には、もうひとり兄弟がいるはずだったのですが、家族で商売を回さざるを得ない状況で、母もかなりの無理をしたのでしょう。2番目の兄は流産をしてしまったとのことです。
その後、3番目の私が生まれるときは、多少は慎重になったのかもしれませんが、とにかく、1970年にかろうじて、この世に生まれました。

生まれたは良いものの、私はいろいろな問題を抱えた状況で生まれてきます。その一つが体の骨の湾曲です。
祖父に連れられて商売に回るのと同時に、接骨院に通って足の湾曲を治療することになります。いま考えると、接骨院ではなく整形外科に行くべきで、骨が成長する前に、正しい形になるようにギブスをはめておけば、きちっと走れるようになっていたはずです。
ただ、当時はそのような知識もなく、早く走れない(50m走で12秒前後かかる)という問題に突き当たります。

2.小学生になってから
うまく走れないということは、小学生にとって、大きなハンデです。他の小学生が平均台の上を、スルスルと器用に歩いていくのに、私にはそれができないのです。そのため、体育の成績は5段階評価の1でした。私の足の事情を先生に話せば、相応にゲタを履かせてくれたのかもしれませんが、当時はそのような知恵もなく、子供ながらにショックを受けたものです。

一方、足のハンデは、ドンくさい奴というふうにとらえられることも多く、周りにも影響を与えていきます。

小学校4年生のときの担任のM先生は、今で言う、暴力教師でした。
とにかく、自分の気に入らない奴のことは、手加減なしに徹底的に殴ります。一方、自分にすり寄ってくる生徒は、自宅に招待するというような、あきらかな、えこひいきを行います。
私は、ドンくさいやつと見られていたのでしょう。先生の気に入らない奴というカテゴリに分類されてしまいます。
当時は、毎週水曜日の6時間目はクラブ活動で、クラブ活動が終わり次第、各々で帰宅というルールになっていました。たまたま、水曜日に体調が悪くて、クラブ活動を途中で切り上げて、自宅に帰ってしまい、翌日、先生に報告しにいったときのことです。

前々から、私のことを嫌っていたのでしょうが、理由も聞かず、いきなり角材で力任せに、頭を殴られて、流血してしまいます。このときは、他の生徒も暴力被害を受けており、さすがに親が教育委員会に相談するという話になったのです。しかし、その前に、殴った先生がマズイと思ったのでしょう。先手を打って誤りに来てしまい、沙汰止みになってしまいます。

ただ、このときに受けた「力まかせの暴力にはかなわない。」という思いは、現在まで、自分の心の奥底で尾を引いていくことになります。一方で、「暴力には、うやむやにせずきちっと知恵で対応すべき。で、そうしないと、自分と同じ犠牲者が何人も出てしまう。」という考えも一方で持っていました。

自分の感情は、このときに一度壊れています。
いま考えると、「人間はたとえ先生といえでも、感情に支配されてしまう動物で、世の中は理屈で通用しないこともあるんだ」 という、整理の仕方もあるのでしょう。ただ、今回、文章を書くまで、ずっとモヤモヤしたままで残っていました。

きっと、このできごとが、自分の中にある卑屈さの原点のようなものです。

4.中学生のころ
中学生になっても、あいかわらず、どうやっても走るのが早くなりません。一方、中学生になると、だんだんごまかしの効かない 球技、陸上、体操といった科目が増えてきます。
まあ、親や私の同級生も このままではまずいと思ったのでしょう。いろいろな人のススメもあり1年間だけ、柔道教室に通うことになります。
子供のときにお世話になった接骨院の先生がやっている教室で、ここで、先日お会いしたO先生の旦那さまにも、面倒を見てもらっうことになります。
当然、接骨院の先生も私の小さいころを知っていますから、強くならないだろうということも承知の上で指導をしてくださったのだと思います。ただ、弱き者にもできる限りの愛情を注ぐという姿勢には、いまでも、とても感謝をしています。

勉強の方は、中学生のころに、ようやく、世の中の事情が飲み込めてきました。
兄には及ばないものの、岩井中学の同窓生409人の中で、なんとか、10番以内の成績を確保できるようになり、先が見えるようになります。

一方で、勉強だけができて、運動ができないというのはイジメの対象にもなります。
むりやりパンツを降ろされたり、絶対に飛べないハードル競争に出場させられる等々、ひどいこともされましたが、まあ、こちらは、中学生同士の悪ふざけのようなもので、結構、あっけらかんとしたものでした。
スポーツの中で、水泳だけは、足の骨の影響が無いので、普通に3kmくらい泳ぐことができますし、45歳まで、日本橋小学校でトレーニングをしていました。すべてのスポーツがダメでなくてよかったです。

5.高校生のころ
・水海道一高の同級生は330人います。岩井中で一桁台だったといっても、集まってくる奴らも、みんな、それぞれの地域の神童とされていた奴らなので、なかなか成績が上がりません。高校1年生のときは、300番代友の会(30人限定)という、あまり、ありがたくないグループに入れられて、補修授業の常連になってしまいます。
無理やり、勉強しても、勉強しても一向に成績が上がらず、かなり、参ってしまいます。結局、高校3年生の11月くらいまで成績は上がりませんでした。

・一方、そのようななかでも、クラスの友人達と楽しく高校生活を送ります。前の席に座っていた木村君は、私にホロヴィッツというピアニストが演奏しているベートーヴェンピアノソナタのCDを貸してくれます。一方、後ろの席に座っていたK君とは、現在でも親友として付き合いがあり、一緒に理科部無線班に入り、パソコンソフトの開発をすることになります。

・高校生のときには、麻雀も覚えます。麻雀は高度な知的ゲームで、平成一桁まで、銀行の中でも大流行していました。さすがに高校の中で麻雀卓を囲んでいたときは、先生に本気で怒られました。これが、最後にビンタされた経験で、これ以降、いままでビンタをされたことはありません。

・高校まで自転車で通う。脚力のなさを実感。
高校までは、毎日片道13kmを自転車で通っていました。いま考えると、足の骨の悪さも、筋肉をきちっとつければある程度まではカバーできるということがわかりました。走るのと違って、足の骨に衝撃を受けないので、自転車はとても素晴らしいトレーニング道具だということが分かりました。

・受験の準備と大学受験
高校3年生の10月頃から受験勉強を始めます。道具は、兄が使用したものが一通り揃っているので、その跡をそのままなぞっていくだけです。僕は魔法の参考書と読んでいたのですが、参考書の解説を更に分かりやすく解説して、間違いやすいポイントまで、ほとんどすべての回答が、参考書に記載されています。

これだけで、他の受験生と比べて、圧倒的なアドバンテージになりました。結局、300番代だった成績は2ヶ月くらい勉強しただけで、学年で2番まで上がり、立教大学に合格することになります。 ← はっきりいって、一種のチート行為と言えるかもしれません。兄は現在岩井で学習塾を経営しており、塾の授業で説明した箇所がそのまま試験に出るということで評判になっているとのことです。

6.社会人になってから気がついた体の問題
一方、社会人になって、初めて本格的な健康診断を受けることになります。そのとき、背骨にも骨の湾曲があることが判明します。こちらは、大人になるまでまったく気が付きませんでした。なんとなく、肩が凝ったり、首が痛かったりといったことはあったのですが...
小さい頃からギブスをつけておけば、こちらも、もっといろいろ対応ができたのだと思います。

7.結論
とにかく、病気でも、正しく知って早めに対応すれば、ほとんどの病気は治る時代になったということです。
人も、同じで、適切に処置をすれば、それなりに変化させることはできると思います。
自分がいま気がついている問題は以下のようなものです。

僕が生まれる前のできごと(戦後編)(とりあえず、校了)

自分自身のまとめブログ

1.岩井の酒屋が町の外れにある理由
戦後になって、つぎからつぎへと、お酒を扱う商売人があらわれます。
彼らも、バカではありませんから、「先行者がどうやって成功していくのか」 や 「消費者がどのような行動を取るのか」 ということを、良く観察していたのです。
戦前と戦後の一時期に岩井の北半分を抑えたI酒店も、東(馬立、飯島)西(長須)南(七郷、中川)といった、他の地域はまったく手当できていません。
また、お酒や醤油という重量物をリヤカー自転車で商売をするには、体力の限界もあったのでしょう。
チームのカナメの祖父が体を壊してしまいます。後日聞かされたところによると、胃潰瘍で洗面器一杯の血を吐いたと言っていました。
まさに、戦前~戦後まで、山あり、谷ありの人生で、心も体もボロボロの状態だったのだと思います。
 
悪いことは続くもので、商売の要になる金融機関(茨城県のJ銀行)は、相手の能力や状況を一切勘案せず、融資を断ってきたそうです。
 
そのすきに、東半分はF酒店、辺田はN酒店、西半分はS酒店というふうに、町の端の場所に、つぎからつぎへと新しい酒店ができて、周辺のマーケットを抑えられてしまいました。
いっぽう、町の中にあった酒屋でも、このままではジリ貧に陥ってしまうことに気がついた人たちがいました。その人達は兄弟を他の業界へ送り込み、別の商売をする人たちも現れます。その成功例がコーセー化粧品の創業者の小林孝三郎さんになります。(まさに、世間をあっと言わせる大成功だと思います。)

まあ、祖父も、いろいろと思うところがあったのでしょうが、昭和35年ころまでには、家族経営で堅実に商売をしていく方針を決めたと思われます。

一方で、父の兄弟3人のうち、誰に跡を継がせるかということも検討したのだと思います。その中で長男(私の父)が祖父の跡を継ぐことが決定します。
理由は祖父が病気のときに、祖父の代わりに一生懸命働いたから、跡を継がせたということもあるでしょう。ただ、やはり大きいのは2人の弟たちに比べると、どこか足りない部分があり、手元に置いて最後まで面倒を見ないと危なかっしいと感じたのだと思います。(自分の父のことで、あまり悪く言うのも気が引けるのですが、いまでも、見ていて危なっかしいところがあります。)

2.問屋の役割 と 時代の変遷
お酒は重量物です。
自動車が発達する以前、お酒は石下や水海道の駅まで汽車で運ばれてきていました。そして、その地域の問屋の倉庫に保管され、それを、小売業の商人が取りに行くというスタイルだったようです。
 
一度に300kg近くのお酒を、1週間に2回~3回と、10km以上離れた石下駅水海道駅まで取りに行くって、戻ってくると考えただけでもゾッとします。
 
当時の酒問屋の役割は以下の3点にありました。
①駅まで運ばれてきた荷物を保管する機能。
②大量にものを買い付ける資力(資金決済能力)
メーカーから小売店に直接販売すると、配送と販売代金の回収が面倒です。そこで、いちど問屋にモノを販売し、問屋から小売に売ってもらうことで、効率的な販売と代金回収が可能となります。
③小売店への与信能力。
売店は、中小零細企業が多いです。そのため、小売店が消費者にお酒を販売してからでないと、代金の回収ができません。そのため、問屋に小売店への与信機能を担わせていたということです。

しかし、時代が平成になり、酒販売が免許制でなくなります。一方で、トラック等の輸送手段も発達して、重量物の配送もずいぶん楽になりました。
すると、総合スーパー や コンビニエンスストアが一斉に、お酒の販売に参入してきて、小売と問屋の利益をすべて持っていくということが起きます。

そのため、酒問屋という商売は壊滅的な打撃を受けます。一方、酒の小売業も、コンビニエンスストアへの業態転換を迫られることになります。


3.商売のコツ(総合スーパー や コンビニの弱点)

祖父や父は、総合スーパーやコンビニの弱点は、その凝り固まった販売手順にあることを見抜いていました。そこで、次のようなビジネスを考えます。

・グリーティングビジネス
いまから20年くらい前のことです。当時も、歳をとってしまうと自分の足(自動車)で買い物に行けなかったり、お盆や暮れの挨拶にいけない人たちがいました。
そこで、お中元とお歳暮を買ってくれた顧客で、自分の足(自動車)が無い人たちを、I酒店の配達用自動車(ライトバン)の隣に乗せて、挨拶して回ることを考えつきます。
 
最初は大丈夫かよ?という目でハラハラして見ていましたが、意外とうまく行くものです。お中元やお歳暮という商売は、いちど、うまく行くと、繰り返し売上が見込める商売方法です。自分の家のことですが、良いところに目をつけたものだと思いました。
 
・のし紙と書道
総合スーパーやコンビニで対応できない事項に、のし紙の準備があります。相手先の状況に合わせて、お歳暮、お中元、出火見舞い、近火見舞い、快気祝 等々、筆を使って、のし紙を準備していきます。田舎でも書道の苦手な人はいるもので、イベントのある度に一定の売上が上がっていきます。

・大型冷蔵庫の導入
今では、「ビール10ケースを全部冷やして持ってきて」 という需要に対応できる酒屋は多いです。ただ、昭和50年台の前半に、このような需要に対応できていたのはI酒店だけだったと思います。いち早く、10ケースのビールをまとめて冷やせる大型冷蔵庫を入れて、対応しています。
一方、相手によっては、すべてのビールを冷やさずに売ることもありました。結局、お酒は麻薬の一種だということを理解して商売をしていたためです。そのため、1ケースのうち、この人が飲んで良いのは2本まで とか 3本まで とか、管理をした上で、その分だけを冷やして持っていくという商売もしていました。こちらは、旦那さまが飲みすぎないように心配する奥様方に受け入れられたようです。

・小中学校の野球やサッカーの応援
真冬に缶コーヒーの注文が入ると、大きな鍋の中に水と缶コーヒーを入れて、グツグツを沸騰するまで温めてから、発泡スチロールのケースに入れて出荷していました。また缶コーヒー以外に、烏龍茶も混ぜて運んでいました。どういう状況(酷寒の屋外で缶コーヒーが飲まれること と コーヒーを飲めない人もいること」を想定した上で、商売をしていたということです。

・ライフイベントビジネス
これは、現在でも行っているものです。
結婚式は招待客しか来ないけど、お葬式は何人弔問客が来るのかが事前に判りません。そのため、予定数量を葬儀場に運んでおき、使った分だけ代金を支払ってください。余ったら返品して構いませんという商売をいまでも行っています。

・まあ、なんだかんだで、コンビニでできない商売を一家全員で行って、1日の売上が100万円を超える日もありました。そのようなこともあり、現在のI酒店の経営が継続し、孫達が、ふたりとも私立大学(兄は早稲田で、俺は立教)に行くことができたわけです。


4.小学生から中学生のころまで

私が中学卒業するまで、家族の中には大まかな役割のようなものがありました。

 祖父と私:自転車で行ける範囲内の配達 と 空き瓶の片付け
 祖母:店番
 父と母:配達
 兄:勉強

兄は、もともと、頭が良かった。(普通に頭が良いとかいうレベルではなく、いつも茨城県で1番で、全国規模で行われる駿台模試でも1桁の順番のところに名前が出てくる。)ということで、はじめから外に出すつもりで、教育されています。

一方、僕は、家業を継ぐ前提で、祖父の教育(酒屋の引き継ぎ)を受けます。僕は大学に合格しなかったら酒問屋で修行をすることになっていたのです。
祖父は、自転車の後ろに僕を乗せて、客先周りをします。今思えば、いわば、これがデビュー戦のようなもので、祖父が客先でどのような会話をするのかとか、どこにお得意様がいるのか、岩井の地理がどのようになっているのか等々を、僕に引き継いでいきます。

いま考えると、小学生に、家業の手伝いをさせるのはどうかと思いますが、当時は、そのようなことを考える間もなく、ひたすら手伝いをしていました。

酒屋を手伝ったから、なにかを買ってもらえるとかはなくて、とにかく、父と母がお酒を配達し、戻ってくる車には空き瓶が満載されています。一方、父と母は次の配達先へ、モノを運ぶ準備をしているので、必然的に、祖父と僕が空き瓶の片付けをしないと仕事が回らない状況ということで、必死になって、働いていたという記憶しかありません。


5.重要なポイントは常に考え続けること

岩井という限られた地域での経験で、全国で同じような事例があるのかどうかは解りません。ただ、昨今の企業を見ると、前年より売上が上がった、下がったという表面の数値にこだわるあまり、大切なものを見失ってしまうようです。
いちばん大切なのは、「世の中の流れが良く見えているか?」「消費者の行動を良く観察できているのか?」 ということになります。

私の父も、昔からお客がいるということに安住してしまって、なぜI酒店で買い物をしてくれるのか?なぜ他の酒店で買い物をしないのか? ということをきちっと観察できていないように思います。

また、最近でも、売上不振に陥った企業が、いたずらにイベントを行ったりする事例を見ます。はっきり言ってイベントを打つようになったらその商売はおしまいだというのが私の持論です。その瞬間だけは良くなるかもしれませんが、次の反動減は大きなものになります。
やはり、生き残るには顧客のニーズを考え続けること と 繰り返し来てくれる顧客からどうやって利益を確保するかが、商売の基本ということになります。

 

僕の生まれる前のできごと(戦前編) 校了

自分自身のまとめブログ

1.祖父の生き様
私の祖父は1911年(明治44年)の生まれです。日露戦争が1904年ですので、日露戦争の7年後ということになります。当時は日本全体がイケイケの状態だった時代です。

生まれた場所は、沓掛村(現在の坂東市沓掛)です。当時は尋常小学校6年生(12歳)まで育てられると、子供達は丁稚奉公として他家で修行を積み、一定の修行のあとのれん分けをしてもらうきまりでした。祖父は、尋常小学校卒業後に栃木県宇都宮で酒問屋の丁稚奉公として働き始めます。
 
祖父の親(つまり、私のひいおじいさん)は子供達を良く観察しており、優秀な人間ほど他家に奉公に出すし、そうでないものは自家で面倒を見るというふうにルール分けをしていました。祖父は7人兄弟だったのですが、祖父は親達のお眼鏡にかなったのでしょう。無事、他家に奉公に出されたました。祖父の親達は、他家に奉公にだされた人達が、他家の知恵を習得したあと、再び沓掛の地にあつまること。そして、そこで商売をするということで、K家には、常に新しい知恵(考え)がもたらされて、子々孫々の代まで家が繁栄するようにという方針だったということです。

そして、祖父は、そのまま丁稚奉公をつづけ、以下のようなイベントを宇都宮で迎えることとなります。

2.祖父が経験した関東大震災。(1923年 12歳)
いま、あらためて計算してみると、関東大震災があったのは奉公にでて、6ヶ月後ということになります。聞かされたポイントは以下の3点でした。

①大地震の継続時間
関東大震災のときも、地震の揺れは半日くらい繰り返し襲ってきたそうです。
現在の私達は、東日本大震災を経験しているので、大地震の揺れが半日以上続くものだということを知っていまが、実際に被災してみるまでは、良く理解していませんでした。

地震が起きたら家に入るな。
一度揺れが収まっても、繰り返し揺れが来るから、絶対に家には入るなとも、言っていました。当時は、鉄筋コンクリートではないので、家屋倒壊の恐怖感は相当のものだったと思います。

③枕元には、翌日着る服 と 明かりを用意しておく。(これは直接震災と関係がないかもしれません。)
私は、小学校2年生くらいまで、祖父に添い寝をしてもらっていました。そこで、祖父から学んだのは、常に準備するという習慣です。祖父は夜寝る時は、翌日着る服 と 明かり を枕元に準備していました。そして当時の私にも、同じようにするように言っています。当時は意味もわからず、火事や地震が起きた時の準備かな くらいの思いで、祖父の真似をしたものです。しかし、今あらまてめて考えると、祖父の言いたかったことが分かります。祖父の言いたかったことは、「前日のうちに翌日に何をしたら良いのかというイメージを持ちながら眠りに入りなさい。」 ということだったのだと思います。そして、言葉で教えられたものは、所詮言葉でしか表現できないもので、実際と乖離してしまうんだ。しかし、「体験として体で覚えさせたものは、一生、離れることはないんだ。」 ということを、習慣として伝えたかったんだと思います。

3.祖父が経験した金融恐慌。(1927年 16歳)
パニック時は人の流れを見ることが重要
祖父からは、昭和の金融恐慌の話も聞かされたことがあります。当時の大蔵大臣が国会で「東京渡辺銀行が破綻しました。」と漏らしたことをきっかけに、庶民が一斉に銀行窓口に殺到し、預金を引き出そうとした事件です。歴史の教科書には紙幣が足りなくなり、片面のみ印刷された紙幣が出回ったと記載もあります。これも、教科書と実際は違うんだということを話ししてくれました。

 宇都宮でも、銀行に人が殺到したところまでは、教科書と同じなんだ。だけれども、当時の銀行の頭取は、預金を引き出した庶民がどういう行動をするのかということまでを、一歩下がった位置からじっと見ていたんだ。そして、庶民が引き出したお金がそのまま、銀行の隣の郵便局で貯金されることを確認してから、頭取と郵便局との間で話し合いをし、郵便局に持ち込まれた紙幣を、そのまま銀行に融通するという決め(スキーム)を作ってパニックを防止したんだ。そして、宇都宮では紙幣の不足が怒らず、金融恐慌を無事乗り切っってしまったんだということを話てくれました。
パニックが起こったときは、とにかく、「人の行動を良く観察するんだ」ということも、教えてもらったことの一つです。

4.I酒店開業(1941年 30歳)
 私の実家のI酒店は1941年(昭和16年)に開業しました。丁稚奉公というのは、次から次へと新しい人が入ってくるので、いずれは奉公を終えて、自分で独立しなければなりません。祖父もそれにならって、20代後半から独立の準備をしていたのでしょう。茨城県内のいろいろなところを回ったんだということを聞かされたことがあります。最初は、軍とのつながりで商売ができないか? ということを考えて、土浦の霞ヶ浦航空隊にも出入りしたそうですが、すでに同じことを考えている人達がたくさんいて、まったく商売として成り立ちませんでした。
茨城県内を色々と回ったところ、たまたま、岩井の専売公社(タバコを専門に買い取る国の機関)があって、そこに、新興の商売人達が集まっている場所があったそうです。
当時、タバコは重要作物で、一種の麻薬ということもあり、国が独占して買取と販売を行っていました。タバコを栽培するということは、すなわち、畑で現金を栽培しているようなもので、タバコ農家は一定の収入がある人たちだということを一瞬で見抜いたのでしょう。

一見すると、専売公社は岩井の町の一番西のハズレにあって、お店は、更にそこから北に100mほど離れた場所なので、商売に不向きなように見えますが、タバコを運んできた大八車のままでは、町の中心部までは入っていけないから、このハズレの店を利用するはずだということも見抜いていたと思います。

一応、当初狙っていたとおり、タバコを専売公社に納品したあと、岩井の北部に帰る時、日常で使う、酒、醤油、味噌、等を買ってもらうことができて、上岩井、上出島といった岩井の北の方に住んでいる人達に商売ができるようになりました。かろうじて、独立に成功します。
 
また、祖父は、店を持つと同時に、もう一つ重要な決断をしています。それは、商権の買い取りです。当時は店を持たずに商売をする人たちも多くいましたが、その人達から商いをする権利を買い取っていったということです。ひょっとしたら、戦争が長引き物資が不足するところまで見抜いていたかもしれません。そういう場合でも、伊勢屋に来れば必要な物資が手に入るという、一種の独占商売まで考えていたと思われます。


5.徴兵と敗戦(1945年 34歳)
太平洋戦争の影響は思わぬところに及んできます。いままで徴兵の対象にならなかった人たちにも徴兵のお知らせが届くようになります。祖父も例外ではなく、千葉県の佐倉の兵団に入れられてしまいます。
ただ、入隊してすぐに負けるということが解ったそうです。まず、配給された装備が、正式な38式銃ではなく、火縄銃(金属を折りたたんで2発だけ弾が出る拳銃) と 靴が稲わらでできたワラジだったそうで、これでは、勝てないだろうということがすぐに解ったと言っていました。

また、祖父は、しきりに、山本五十六の死は、自殺だったんではないかということも話をしていました。歴史の教科書では、ブーゲンビル島上空で、アメリカ軍機に撃墜されたことになっていますが、実際は戦争の行方を悲観し、自ら命を断ったんではということも言っていました。ここの真相も、歴史の闇ですが、必ずしも、教科書に書かれていること や 公式発表が正しいものではないということも、可能性として考えるようになったきっかけです。

6.預金封鎖とと新円切り替え(1946年 35歳)
前年、日本は敗戦を迎えます。広島や長崎の人たちからすると、家族全員の命が助かっただけでも、ありがたいことなのかもしれません。
ただ、商売人として大きなミスをしてしまいます。というより、どうしようもなかったものです。

小売の商売をしていく上で、決済用の現金は絶対に必要なものなのですが、政府はインフレ防止のため、戦時中に流通していた現金をすべて銀行に預け入れることを強制します。すなわち、xx日より戦時中に流通していたお金(旧円)は紙くずになりますから、旧円を持っている人は、すべて銀行に預け入れてください。そして、銀行から毎月引き出せるお金は、家族ひとりあたりxx円までです。という政策をします。
とにかく、紙くずになってしまう旧円でも、一定のお金を貯めていたので、家族全員ご飯を食べることはできたのですが、商売ができません。預金を食いつぶしながら、食いつないでいる状態です。サラリーマンと違って、何の保障も無いですから、いかに心細かったかということも分かります。

一生懸命商売をしてきて、店も持って、お金も稼いだけど。
せっかく稼いだお金が、紙くずになってしまったということです。今となっては直接聞くことはできませんが、「一体、お金って何なんだ? 俺の人生は何だったんだ?」 ということをいろいろ考えたのではないかと思います。それが、後に、孫の教育に引き継がれていきます。

7.お金って一体何なんだ?
今年で祖父が亡くなって14年経ちます。
私もリース会社(金融機関)に勤めて25年になりますが、お金が何者なのかという疑問は、いまでもよく解っていません。ただ、お金が絶対的な価値の尺度ではなくて、たえず、紙くずになってしまうリスクを抱えた金融商品だということは理解しています。また、「金属の金」でさえも、地球の内部から金を無尽蔵に取り出す技術ができましたりすると、一瞬で価値がなくなってしまうものです。

一方で、「どうすれば商売が回るのか?」とか「どうすれば、家族みんながご飯を食べられるのか?」とかといった、深く考える知恵は、死ぬまで決してなくなることはありません。
祖父は、目の前にある現金もとても大事なものだけど、もう一つ重要なのは良く考えることで、それを、子供や孫に引き継いでいきます。一方、知恵を独占するようなことはせず、岩井の社会全体にも知恵を授けていました。それが、2004年に祖父が亡くなった時、昔お世話になったものですけど、ひと目お別れに伺いました。といって、6畳ひと間の小さな祭壇に、数百人の人がお別れに訪れたという結果につながります。