僕の生まれる前のできごと(戦前編) 校了

自分自身のまとめブログ

1.祖父の生き様
私の祖父は1911年(明治44年)の生まれです。日露戦争が1904年ですので、日露戦争の7年後ということになります。当時は日本全体がイケイケの状態だった時代です。

生まれた場所は、沓掛村(現在の坂東市沓掛)です。当時は尋常小学校6年生(12歳)まで育てられると、子供達は丁稚奉公として他家で修行を積み、一定の修行のあとのれん分けをしてもらうきまりでした。祖父は、尋常小学校卒業後に栃木県宇都宮で酒問屋の丁稚奉公として働き始めます。
 
祖父の親(つまり、私のひいおじいさん)は子供達を良く観察しており、優秀な人間ほど他家に奉公に出すし、そうでないものは自家で面倒を見るというふうにルール分けをしていました。祖父は7人兄弟だったのですが、祖父は親達のお眼鏡にかなったのでしょう。無事、他家に奉公に出されたました。祖父の親達は、他家に奉公にだされた人達が、他家の知恵を習得したあと、再び沓掛の地にあつまること。そして、そこで商売をするということで、K家には、常に新しい知恵(考え)がもたらされて、子々孫々の代まで家が繁栄するようにという方針だったということです。

そして、祖父は、そのまま丁稚奉公をつづけ、以下のようなイベントを宇都宮で迎えることとなります。

2.祖父が経験した関東大震災。(1923年 12歳)
いま、あらためて計算してみると、関東大震災があったのは奉公にでて、6ヶ月後ということになります。聞かされたポイントは以下の3点でした。

①大地震の継続時間
関東大震災のときも、地震の揺れは半日くらい繰り返し襲ってきたそうです。
現在の私達は、東日本大震災を経験しているので、大地震の揺れが半日以上続くものだということを知っていまが、実際に被災してみるまでは、良く理解していませんでした。

地震が起きたら家に入るな。
一度揺れが収まっても、繰り返し揺れが来るから、絶対に家には入るなとも、言っていました。当時は、鉄筋コンクリートではないので、家屋倒壊の恐怖感は相当のものだったと思います。

③枕元には、翌日着る服 と 明かりを用意しておく。(これは直接震災と関係がないかもしれません。)
私は、小学校2年生くらいまで、祖父に添い寝をしてもらっていました。そこで、祖父から学んだのは、常に準備するという習慣です。祖父は夜寝る時は、翌日着る服 と 明かり を枕元に準備していました。そして当時の私にも、同じようにするように言っています。当時は意味もわからず、火事や地震が起きた時の準備かな くらいの思いで、祖父の真似をしたものです。しかし、今あらまてめて考えると、祖父の言いたかったことが分かります。祖父の言いたかったことは、「前日のうちに翌日に何をしたら良いのかというイメージを持ちながら眠りに入りなさい。」 ということだったのだと思います。そして、言葉で教えられたものは、所詮言葉でしか表現できないもので、実際と乖離してしまうんだ。しかし、「体験として体で覚えさせたものは、一生、離れることはないんだ。」 ということを、習慣として伝えたかったんだと思います。

3.祖父が経験した金融恐慌。(1927年 16歳)
パニック時は人の流れを見ることが重要
祖父からは、昭和の金融恐慌の話も聞かされたことがあります。当時の大蔵大臣が国会で「東京渡辺銀行が破綻しました。」と漏らしたことをきっかけに、庶民が一斉に銀行窓口に殺到し、預金を引き出そうとした事件です。歴史の教科書には紙幣が足りなくなり、片面のみ印刷された紙幣が出回ったと記載もあります。これも、教科書と実際は違うんだということを話ししてくれました。

 宇都宮でも、銀行に人が殺到したところまでは、教科書と同じなんだ。だけれども、当時の銀行の頭取は、預金を引き出した庶民がどういう行動をするのかということまでを、一歩下がった位置からじっと見ていたんだ。そして、庶民が引き出したお金がそのまま、銀行の隣の郵便局で貯金されることを確認してから、頭取と郵便局との間で話し合いをし、郵便局に持ち込まれた紙幣を、そのまま銀行に融通するという決め(スキーム)を作ってパニックを防止したんだ。そして、宇都宮では紙幣の不足が怒らず、金融恐慌を無事乗り切っってしまったんだということを話てくれました。
パニックが起こったときは、とにかく、「人の行動を良く観察するんだ」ということも、教えてもらったことの一つです。

4.I酒店開業(1941年 30歳)
 私の実家のI酒店は1941年(昭和16年)に開業しました。丁稚奉公というのは、次から次へと新しい人が入ってくるので、いずれは奉公を終えて、自分で独立しなければなりません。祖父もそれにならって、20代後半から独立の準備をしていたのでしょう。茨城県内のいろいろなところを回ったんだということを聞かされたことがあります。最初は、軍とのつながりで商売ができないか? ということを考えて、土浦の霞ヶ浦航空隊にも出入りしたそうですが、すでに同じことを考えている人達がたくさんいて、まったく商売として成り立ちませんでした。
茨城県内を色々と回ったところ、たまたま、岩井の専売公社(タバコを専門に買い取る国の機関)があって、そこに、新興の商売人達が集まっている場所があったそうです。
当時、タバコは重要作物で、一種の麻薬ということもあり、国が独占して買取と販売を行っていました。タバコを栽培するということは、すなわち、畑で現金を栽培しているようなもので、タバコ農家は一定の収入がある人たちだということを一瞬で見抜いたのでしょう。

一見すると、専売公社は岩井の町の一番西のハズレにあって、お店は、更にそこから北に100mほど離れた場所なので、商売に不向きなように見えますが、タバコを運んできた大八車のままでは、町の中心部までは入っていけないから、このハズレの店を利用するはずだということも見抜いていたと思います。

一応、当初狙っていたとおり、タバコを専売公社に納品したあと、岩井の北部に帰る時、日常で使う、酒、醤油、味噌、等を買ってもらうことができて、上岩井、上出島といった岩井の北の方に住んでいる人達に商売ができるようになりました。かろうじて、独立に成功します。
 
また、祖父は、店を持つと同時に、もう一つ重要な決断をしています。それは、商権の買い取りです。当時は店を持たずに商売をする人たちも多くいましたが、その人達から商いをする権利を買い取っていったということです。ひょっとしたら、戦争が長引き物資が不足するところまで見抜いていたかもしれません。そういう場合でも、伊勢屋に来れば必要な物資が手に入るという、一種の独占商売まで考えていたと思われます。


5.徴兵と敗戦(1945年 34歳)
太平洋戦争の影響は思わぬところに及んできます。いままで徴兵の対象にならなかった人たちにも徴兵のお知らせが届くようになります。祖父も例外ではなく、千葉県の佐倉の兵団に入れられてしまいます。
ただ、入隊してすぐに負けるということが解ったそうです。まず、配給された装備が、正式な38式銃ではなく、火縄銃(金属を折りたたんで2発だけ弾が出る拳銃) と 靴が稲わらでできたワラジだったそうで、これでは、勝てないだろうということがすぐに解ったと言っていました。

また、祖父は、しきりに、山本五十六の死は、自殺だったんではないかということも話をしていました。歴史の教科書では、ブーゲンビル島上空で、アメリカ軍機に撃墜されたことになっていますが、実際は戦争の行方を悲観し、自ら命を断ったんではということも言っていました。ここの真相も、歴史の闇ですが、必ずしも、教科書に書かれていること や 公式発表が正しいものではないということも、可能性として考えるようになったきっかけです。

6.預金封鎖とと新円切り替え(1946年 35歳)
前年、日本は敗戦を迎えます。広島や長崎の人たちからすると、家族全員の命が助かっただけでも、ありがたいことなのかもしれません。
ただ、商売人として大きなミスをしてしまいます。というより、どうしようもなかったものです。

小売の商売をしていく上で、決済用の現金は絶対に必要なものなのですが、政府はインフレ防止のため、戦時中に流通していた現金をすべて銀行に預け入れることを強制します。すなわち、xx日より戦時中に流通していたお金(旧円)は紙くずになりますから、旧円を持っている人は、すべて銀行に預け入れてください。そして、銀行から毎月引き出せるお金は、家族ひとりあたりxx円までです。という政策をします。
とにかく、紙くずになってしまう旧円でも、一定のお金を貯めていたので、家族全員ご飯を食べることはできたのですが、商売ができません。預金を食いつぶしながら、食いつないでいる状態です。サラリーマンと違って、何の保障も無いですから、いかに心細かったかということも分かります。

一生懸命商売をしてきて、店も持って、お金も稼いだけど。
せっかく稼いだお金が、紙くずになってしまったということです。今となっては直接聞くことはできませんが、「一体、お金って何なんだ? 俺の人生は何だったんだ?」 ということをいろいろ考えたのではないかと思います。それが、後に、孫の教育に引き継がれていきます。

7.お金って一体何なんだ?
今年で祖父が亡くなって14年経ちます。
私もリース会社(金融機関)に勤めて25年になりますが、お金が何者なのかという疑問は、いまでもよく解っていません。ただ、お金が絶対的な価値の尺度ではなくて、たえず、紙くずになってしまうリスクを抱えた金融商品だということは理解しています。また、「金属の金」でさえも、地球の内部から金を無尽蔵に取り出す技術ができましたりすると、一瞬で価値がなくなってしまうものです。

一方で、「どうすれば商売が回るのか?」とか「どうすれば、家族みんながご飯を食べられるのか?」とかといった、深く考える知恵は、死ぬまで決してなくなることはありません。
祖父は、目の前にある現金もとても大事なものだけど、もう一つ重要なのは良く考えることで、それを、子供や孫に引き継いでいきます。一方、知恵を独占するようなことはせず、岩井の社会全体にも知恵を授けていました。それが、2004年に祖父が亡くなった時、昔お世話になったものですけど、ひと目お別れに伺いました。といって、6畳ひと間の小さな祭壇に、数百人の人がお別れに訪れたという結果につながります。