茨城県南部の歴史考察。校了

茨城県南部の歴史考察。()

1.岩井という場所
(1)徳川家康の江戸入城
私達はどこから来たのか?という疑問は、いつも、私の中にありました。今回、いろいろと調べてまとめてみました。

岩井の歴史は、徳川家康の関東地方の支配とともに始まります。
江戸城に入城して、家康がはじめに行ったことは、江戸の町の防備を固めることです。
江戸時代初期は動乱の時代(戦国時代) から 安定した時代(江戸時代中期)への移行時期で、江戸より北の地方には戦う気が満々の武将、およびその子孫たちが、虎視眈々とすきをうかがっていました。戦国時代に徳川氏のライバルだった仙台の伊達氏、常陸国の佐竹氏、越後の上杉氏などはその筆頭格です。
彼らは、徳川の世の中になったからといって、自分の家は徳川家と同格だという意識が常にあり、徳川家の軍門にくだるのを良しとしなかったのです。徳川家が西国の戦争で江戸を離れるすきがあれば、江戸を攻め落としたあと、その勢いで西国に攻め入って、豊臣の残党やキリシタン大名と結束して、徳川を打ち破り、自分が天下人になるつもりでした。

 そのような状況の中、江戸の防備を固めるために、徳川がまっさきに行ったことは、現在の江戸川(五霞町)と鬼怒川(守谷市)の間に川を掘るという工事です。
常陸の国というのは、「常に陸」という字のとおり、大きな河川がありません。いちど、いわき(福島県いわき市)まで攻め入られてしまうと、あとは、陸路で一直線に江戸まで攻め入られてしまうような状況だったのです。そのため、現在の江戸川上流から 鬼怒川中流まで川をつなぐという大工事を行い、攻められないように防御用の川(堀)を掘ったということです。そして江戸の北方から敵が攻めてきた場合、関宿(現在の野田市 と 岩井市)に配置した各家が協力して敵を撃滅するということだったのです。

それゆえ、関宿(現在の野田市 と 岩井市)には、徳川家がもっとも信頼する譜代大名や農民が入植させられました。関宿の農民が江戸時代から名字を持っていた理由は、江戸時代が完全な士農工商の時代ではなく、この地域では、士農工商の身分の違いを乗り越える自由があった人たちがいたということです。


(2)関宿藩 岩井
岩井は関宿藩(現在の野田市にお城が築かれ)の管轄に置かれます。江戸時代は、利根川が国の境ではなくて、岩井と野田はひとつの地域をなしていたということです。関宿は重要な防衛地だったため、代々徳川譜代の大名が配置されていましたが、その中でもっとも優秀だったのは、久世氏と言われています。

そして、岩井の人たちは、頭を悩ませながら南側に流れている利根川と付き合っていくことになります。

利根川の掘削は江戸初期1680年頃までにひととおりの工事が終わっていますが、久世氏は、江戸を洪水から守るために、さらなる対策を講じます。それは「関宿落とし」 という関を作る工事です。これは江戸川の堤防を数百メートルに渡って高くかさ上げした上、川幅を大幅に縮め、洪水が発生しそうな大雨が来ても、江戸川の水量を一定にし、溢れ出た水を強制的に現在の利根川(岩井、守谷、取手、銚子)方面に流して、江戸の町を洪水から守るという工事です。関宿落としの工事が終わると同時に、江戸は江戸川(旧利根川)の氾濫の影響を受けにくくなります。一方、岩井や野田といった新たに掘られた利根川の流域は、毎年のように洪水(水害)に見舞われることになります。

(3)久世氏の業績(度重なる自然災害に立ち向かう。)
久世氏は、度重なる自然災害(水害)の中で、藩の運営を深く考え、以下のような手当をします。
①藩の飛び地設ける。
藩の飛び地は大きく分けると、下野の国(現在の栃木県)、常陸の国(現在の茨城県中部)、和泉の国(現在の大阪府堺市)に設けられました。
飛び地が大きく2つに分かれているのには理由があります。
下野(栃木県)の飛び地からは、洪水発生時の当座の食料の調達です。水害が起こるかどうかは、川の上流(栃木県)からは容易に推測が可能です。そのため、一定の水量の大雨が降ったときは、即座に食料を下流の関宿まで運べるように準備していたということです。おそらく、船も相当数が準備されており、災害時には一斉に利根川を伝って、関宿藩まで食料が運ばれたことでしょう。
一方、大阪の堺市の飛び地は全く目的が異なります。
通常は、米を調達するには堂島に一番近い場所に蔵屋敷を設置したほうが良い考えるのが普通です。ただ、よくよく考えてみると、堺市でなければいけない理由が分かります。堺市は、大阪南港の近くにあって、コメの流通を一番最初につかむことができる場所です。また、堺市に水田をもつことで、降り出した米切手をすぐに現物に替えることができ、振り出した米切手を現物で商人から買い戻すことができます。また、関宿で米が足りない場合、堂島に運ぶ前に、大阪南港に米がついた段階で買い付けて、関宿まで回送できます。
まさに、災害が多い関宿藩の知恵をすべて出した藩の運営がなされていたということになります。

(4)重農主義から重商主義
一方、米がうまく育たないということは、関宿での新しい産業の成立を促しました。川の南側(現在の野田市)では醤油製造。川の北側(岩井)ではお茶の栽培です。
醤油の原料は、大豆、塩、硬水です。大豆は、現在の茨城県やその北方で栽培されたものが、鬼怒川から利根川を経由して関宿(野田)まで運ばれてきます。塩は霞ヶ浦から運ばれてきました。霞ヶ浦は現在でこそ淡水湖ですが、近代になるまでは塩湖でした。そして、谷川岳から流れてくるミネラル分の多い硬水ということになります。野田はこの3つの合流地点です。野田の醤油が有名になった理由は、生産地として、3つの地点から等距離にあったことと、大消費地の江戸まで船で運べることが大きかったと思われます。なお、岩井も、七郷には近代になるまで小さな醤油の醸造元がありました。
そして、野田の醤油は、江戸の食文化にも深い影響を与えていきます。醤油の発明前は、マグロは痛みやすく庶民からは食べられない魚の代表のように扱われていましたが、切り身にしたあと醤油につけるマグロ漬けという保存方法が発明されました。江戸前から相模湾で取れたマグロ と 野田の醤油は、切り離せない関係になり、江戸の庶民の胃袋をがっちり掴んでしまったということです。

(5)飢饉の悲惨さ
歴史の教科書では、江戸時代は飢饉が頻発した時代とされています。その理由は度重なる天変地異のためとされているのですが、私はそれに疑問を持っています。
理由は、歴史の教科書を書いている人たちが米の金融商品としての性質を正しく見ていないためです。
江戸時代、堂島に米市場ができたときは、米は現物取引が中心でしたが、次第に商人たちは米を蔵から出さず、紙だけで取引するようになります。
人間とは、昔も今も重いものを運ぶことが嫌いなので、どうせ最後に決済するんだったら、現物は蔵の中にしまっておいて、紙の上だけで決済を行えば良いんじゃないの?ということになりました。
そして、一度紙になった米切手は、次第に有価証券の性質を持ち始めます。諸藩によっては、財政が苦しいときに、来年取れる米を当てにして、現物の裏付けのない先日付の米切手を振り出すところも出てきます。

東北地方で飢饉に見舞われた諸藩は大体そのようにして先日付の米切手を発行していたと思われます。つまり今年の収穫予想高が10万石であれば、五公五民として、半分の5万石の米切手を振り出し、金を融通する。
実際に、10万石以上取れる年もあれば、5万石しか取れない年もあるのに、10万石の米が取れる前提で、米切手を発行してしまいます。たまたま、飢饉のときは5万石しか取れない年が3年間つづいたとすると、すでに振り出した米切手を決済するために、すべてのお米を領民から取り上げなければ、米切手が不渡りになってしまう。こうなってしまうと、裏作の麦が取れない年は、即、飢饉ということになります。
一方、法制度の未整備だった江戸時代では、不渡りを発生させることは、現在より恐ろしいことだったでしょう。法制度の整った現代では2回めの不渡りで5年間の銀行取引停止処分というルールがあり、また、万が一の場合は破産という方法も残されています。一方、江戸時代は法治国家ではありません。ひょっとすると、米切手不渡りという不祥事が起きれば、お家お取り潰し、関係者切腹、藩のメンバーが全員失業していしまう。という最悪の事態を招きかねません。

こうなってしまうと、領民が何人死んでも、米切手の決済を優先させて、領民の食べるものをすべて取り上げて、堂島まで運ぶしかないということになります。このようにして、飢饉というのは天変地異だけでなく、その時代の市場の仕組みによっても影響されてしまったのだと思われます。明治になって、税金の仕組みが米の納付から地租に代わり、堂島米市場は廃止され、一方、米を鉄道で輸送できるようになり、米市場自体が意味をなさないものなっていきました。

現代でも、適切に市場をコントロールすることは、難しいことです。ただ、そこに資金を供給する金融業は、医者と同じく人の命を預かっているという大変な職業だという認識をもって、仕事をすることが肝心です。